こんばんは、しもべ です。

またまたMTGと関係ありませんが少しこの事件を含めて、最近思った事を書こうかと思います。別にこの事件に対して色々考察するわけではありません。
そんな知識も持ち合わせていませんし…。思った事を感情に任せて書きなぐってるだけです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120316-00000104-jij-soci


まず、この事件の概要ですが
「1999年(平成11年)4月14日に山口県光市で発生した凶悪犯罪。当時18歳1ヶ月の少年Aにより主婦(当時23歳)が殺害後屍姦され、その娘の乳児(生後11カ月)も殺害された上、財布を窃盗した。(Wiki転載)」
というもの、です。

事件後の裁判の推移(超簡略版)
2000年 3月22日、山口地方裁判所;求刑:死刑 → 判決:無期懲役
2002年 3月14日、広島高等裁判所;検察の控訴を棄却
2006年 6月20日、最高裁判所は、検察の上告に対し広島高裁の判決を破棄、審理を差し戻し
2007年 5月24日~、最高裁は上告を受けて、公判を開く
2008年 4月22日、判決公判が行われ、死刑判決。弁護団による即日上告
2012年 1月23日、最高裁判所、第一小法廷での上告審弁論が開廷。
2012年 2月20日、最高裁判所第一小法廷で判決公判。差し戻し二審判決を支持して被告人の上告を棄却
2012年 3月1日、判決訂正の申し立てを行っていたが、3月14日付けで申し立てを棄却。死刑が確定
(Wikiより抜粋)

 非常に永い闘いでした。何度も審議を重ねたとはいえ、約13年。本当に永い闘いでした。被害者の本村さんにとって、ようやく不毛な荒野を走り続けなければいけない日々が終わりを迎えました。本当にお疲れ様でした。

 この事件に対しては少年法、死刑適用制度、更生の可能性など様々な難しい問題がありました。しかし、これらの事について論述しようというのではありません。冒頭に記述しましたが、そんな知識ありません。これから書くことはただの感情論です。


 現状、司法と被害者の感情とはどうしてここまでかけ離れている物なのでしょうか?
よく言われる事は、
刑事裁判は、加害者の罪を決める所。つまり、加害者のために開かれるものであり、
民事裁判が、被害者の補填を行う所。つまり、被害者のために開かれる場所である。
要して、加害者の罪の決定には、被害者に考慮されない。被害者への配慮は民事裁判にて行われるもの。
という物です。

 間違ってないのでしょう。そういう制度なのですから。法に対して、感情を差し挟むべきではない、確かに私もそう思います。
法とは、社会の基盤であり、システムです。その根幹がに不用意に感情に流されてはそれこそ問題でしょう。

 しかし、「全く考慮されえない」というのは如何なものなのでしょうか?
法とは社会の基盤であり、システムでありますが、同時に「社会正義の体現」ではないのでしょうか?

 少し前にプレイしたゲームにこんな一節がありました。
「結局のところ、人は正義を求めてしまう。正義とは人が社会に根差す根幹だからだ。」 (英雄伝説 零の軌跡 より)
ここで、ゲームの話かよ!!と思われるかもしれませんが、とりあえずそれは置いといてくださいw
重要なのはそのセリフ。
「正義とは人が社会に根差す根幹」
ここです。
これがあるから、人は安心して社会生活を送れる。いざという時はこれが守ってくれる。
だからこそ、社会は成り立つのではないでしょうか?

 今回の事もそうですが、司法が「社会正義の体現」者ならば、それは加害者ではなく被害者に寄り添うべきではないでしょうか?
(システム的な事を言っているのではありません)
何故被害者の心を守ることをしてくれないのでしょうか?
補填補償の民事裁判で得られるものなんてお金だけ。しかし、こういった被害者の方々が求めているはお金なのでしょうか?本当に、お金で被害者への補償が出来ると思っているのでしょうか?
何故、守られるべき被害者をさしをいて、加害者の今後の在り様に注力するのでしょうか?
失われてしまったものよりも、今在るもののことを考える、という考えを否定する気はありませんが、前者の事は考える必要がない、という事とは違う気がします。
 
 今後の更生の可能性や、責任能力の有無という物が、人2人の命よりも重いのでしょうか?それらが軽視すべきものではないのは確かですが、事故ではなく明確な殺人を犯したものの未来が、殺された2人の命/未来より重いとは、
私には甚だ思えません。


 去年10月、名古屋市北区で起きたひき逃げ事件。
加害者のマルコス・アウレリオ・ベルトン被告は事件発生時、無免許・酒気帯・車検切れで乗用車を運転。
停止中の乗用車に追突後、現場から逃げる時に反対車線を逆走し、自転車で横断歩道を渡っていた被害者の方をはねて逃げて死亡させる、という事件が起きました。
 この事件も、3/12付で名古屋地方裁判所は 懲役7年を言い渡しました。検察・被害者が訴えていた「危険運転致死罪」は適用されませんでした。被害者のご両親は、罪状の変更を求め5万人弱の署名を地裁に提出しましたが、結果は「自動車運転過失致死」でした。
 「無免許・酒気帯・車検切れ」
この3つが揃っていて、人ひとりを明確に殺しておいても、死刑どころか「危険運転致死罪」も適用されないのです。



 なぜ、ここまで司法と被害者感情は遠いのでしょうか?

 社会正義とはいったいどこにあるものなのでしょうか?



法の事など何も知らない人間が感情に任せて書きました。
おかしな所もいっぱいあると思います。

でも、ここに書いたことがあくまで、感情、なんです。


コメント

ブログ脳外科医
2012年3月17日7:06

「今後の更生の可能性や、責任能力の有無という物が、人2人の命よりも重い」そんなことあるわけないと思います.自分の都合だけの故意の殺人.犯行現場からの逃走のための過失致死,被害者から見れば同じ殺人でしょう.

しもべの一人、H
2012年3月17日9:38

>ブログ脳外科医さん
コメントありがとうございます。
私もそう思いたいです。しかし現状は・・・。
本村さんを一、「全国犯罪被害者の会」の方たちの闘いは、これからも続いていく必要があるのでしょうね…。

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索