皆さん、こんばんは。
しもべです。
今日は久々に時事です。
と言ってもここ最近の時事ではありません。
DN更新停止期間中のとあるニュースです。
MTGの記事ではないため興味のない方はスルー推奨です。
一方的な私の考えであり、理論破綻や不愉快な表現もあるかもしれませんので、よしなに。
点線内転載
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[安楽死退けられた男性 食事拒否し死亡 ]
■英裁判所、全身まひ患者の「死ぬ権利」認めず - CNN(17日 10:20)
脳卒中で首から下が麻痺した男性が「死ぬ権利」を求めていた裁判で、英高等法院は16日、男性の訴えを棄却する判決を言い渡した。
原告のトニー・ニックリンソンさん(58)は7年前の2005年に脳卒中を起こし、動くことも話すこともできない「閉じ込め症候群」の状態になった。現在はまばたきでコンピューターや文字盤を操作して会話している。自ら命を絶つことさえできず、医師に安楽死させてもらう権利があると主張して訴えを起こした。
高等法院の判決ではこの訴えについて、「非常に難しい倫理的、社会的、法的問題を投げかけるもの」としてニックリンソンさんの状況に同情を示しながらも、訴えを認めようとすれば、本人の意思による安楽死を禁じた法律を覆さなければならないと指摘し、「法改正についての判断は議会が行わなければならない」と判断した。
やはり閉じ込め症候群に苦しんでいる別の男性の訴えについても同様に退けた。
判決を聞いたニックリンソンさんは、妻のジェーンさんとともに涙を流し、上訴の意向を表明。コンピューターを通じて、「裁判官や政治家は、真の問題と向き合わずに済むのが一番幸せだと思っていて、この訴訟の担当裁判官も例外ではない」「自分の人生をコントロールできるのが自分なのか国家なのかについて結論が出るまでの間、私はまた身体的不快と惨めさと精神的苦痛の中で過ごさなければならない」とコメントした。
娘たちは同日、父の「尊厳死の権利」を支持してほしいと短文投稿サイトのツイッターで呼び掛け、わずか数時間で2200人を超す署名が集まった。
■安楽死退けられた男性 食事拒否し死亡 - NHK(23日 9:39)
イギリスで、全身がまひ状態となり安楽死を望みながら裁判所に訴えを退けられた男性が、みずから食事を拒否するようになって死亡し、安楽死の是非を巡る議論が高まっています。
死亡したのは、脳卒中でほぼ全身がまひ状態になっていたイギリス人のトニー・ニックリンソンさん(58)です。ニックリンソンさんは、全身が麻痺したことで憲法に定められた「尊厳や自主性」が保たれなくなったとして、イギリスの法律では認められていない、医師による安楽死を認めるよう訴えを起こしましたが、先週、ロンドンにある高等法院が訴えを退けていました。
ニックリンソンさんの弁護士によりますと、ニックリンソンさんは、訴えが退けられたあと、みずから食事を拒否するようになって衰弱し、22日に肺炎が悪化して死亡したということです。この問題を巡っては、イギリスの医療団体が「医師が患者の命を絶つのは倫理的に問題だ」として裁判所の判断を支持する一方、有力な新聞などは「患者の苦しみを終わらせるために法律を改正すべきだ」とする論評を掲載するなど、安楽死の是非を巡る議論が高まっています。
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もう、時間が空いてしまって関心の薄れてきた話題ではあります。
が、DNを休んでいる期間に最も衝撃を受けた事件であり、個人的には記事にせずにはいられませんでした。
国内ではNHKぐらいでしか取り上げられず、扱いが非常に小さい事件ではあります。
が、これほど考えさせられるニュースもなかなか無いと思います。
ニックリンソン氏は脳卒中から発症した身体麻痺が悪化し、「閉じ込め症候群」の状態になりました。
この事から、「尊厳死」を認めてほしいという訴えを英国高等法院に対して行いました。
が、判決は棄却。
結果、ニックリンソン氏が選択したのは、食事摂取拒否による「餓死」 です。
最後はその食事拒否により、体調を損ない、肺炎が悪化して死亡されました。
直接の死因は異なりますが、彼が「餓死」という選択肢を選んだ事実は変わりません。
壮絶で、悲壮です。
絶望に溢れた決意です。
彼は麻痺した体では、「人間」として生きる事が出来ず、彼にとって「人間」としての最後に残された行動が食事摂取の拒否だったのかもしれません。
望んで死ぬことを選ぶ人間はそうそういる者ではありません。
出来る事なら「生きていたい」と思う人が大半ではないかと思います。
しかし、そうする事でしか、彼には「人間としての尊厳」を守る方法が無かったのかもしれません。
判決文を聞いていた時の、彼の泣き顔は忘れられません。
それは、自分で涙を拭う事も出来ず、目元を隠す事さえも出来ず、ただただ泣いている人でした・・・。
命は軽んじられていいものではありません。
浅薄な判断で「尊厳死」「安楽死」が認められていいものではないのも判ります。
しかし、それでも認めてもよかったのではないか・・・?という思いがあります。
国際人権規約第6条1項には以下の様にあります。
「人は全て、生まれながらにして生きる権利を有する。この権利は法によって守られるべきである。誰もこの権利をみだりに奪ってはならない」
この先、治る見込みもなく、悪化するしかない症状。
それも動くどころか話す事さえ出来ず、瞬きでしか意志を表せないほどの深刻な状態。
いずれ意思表示さえも出来なくなるかもしれない。
「人間」ではなく「物」になってしまう前に・・・
「人間として死ぬ事」で「人間として生きたかった」のではないでしょうか?
この判決は彼の人間としての「生まれながらにして生きる権利」を損なわせてしまったように感じます。
「死に方を選ぶ権利」とは「生きる権利」に他ならないのではないのか?そう思います。
(この文章中の表現を、不快に思われる方もおられるかもしれません。
特に、
「人間」ではなく「物」に・・・
の下りで不愉快になる方もおられるかもしれません。
が、これは飽くまで、私の故ニックリンソン氏個人に対する、彼の心情を考えたものであり、類似の障害を持つ方への誹謗中傷の意図は全く無いという事は表記させていただきます。
しかし、その上で、この文章が腹に据えかねるという場合は、すぐにこの文を削除させていただきます。)
更に、それらの思想的・感情的な物は横に置いておくにしても、
この判決には決定的・根源的な問題があります。
それは結果として故ニックリンソン氏が自らの意志で「死」を選ぶことを防げていない事です。
訴えを棄却したからと言って何の解決にもなっていません。
彼がより苦難な選択をしただけです。
もっと言えば、彼はその方法をとる必要さえありませんでした。
助けを借りて、「尊厳死」が認められているスイスのような場所に「自殺旅行」を敢行するだけでよかった。
結論としては、この判決は、彼個人の問題は棚上げした上で、国の方針を表明しただけ。
裁判と言う場を情報伝達ツールにしただけなのです。
正直、この余りに筋違いで他人事な判決には怒りを禁じ得ませんでした。
私個人は、自身の尊厳死を認めてほしいと考えています。
寝たきりになったら、一人で風呂に入る事も出来ず、下の世話も満足にできなくなったら・・・。
とても生きていたいとは思えません。
もちろんそれは若い今時分の考えであり、年老いてからは、体を損なったら、その考えが変遷する可能性もあります。
しかしそれでも・・・。
この思いは父方の祖父の死を経験して尚更強まりました。
祖父は非常に壮健な方で、80代でも日曜大工をこなし、日課の喫茶店通いも毎朝こなしていました。
杖をつくこともせず、電化製品の新作が出ては大型家電量販店に足を運んでいました。
そんな祖父がある時、道端で転び骨折をしてしまい、みるみる弱まっていきました。
次第に寝たきりになり、最後は自分の意志さえ表せなくなりました。
骨と皮だけの存在になってしまいました。
そんな2年弱を過ごして祖父は逝きました。
祖父は最後の2年が幸せだったのでしょうか?
私にはとてもそうは思えませんでした。
しかし、本人に聞く術も無い以上「生かすことに最善を尽くすのが家族の務め」と父は云い、延命を行ってもらっていました。
でも、少なくとも、そうまでして生きていたくない。
そう、思いました。
(「延命行為が老人虐待なのではないのか?」と言う程、過激な考えを持っているわけではありませんが、過剰な延命行為はやはり望ましくないと思います。
今の医療の在り方事態に疑問も持っています。
DNリンクをさせてもらっているNackeyさんの言葉を借りれば「日本には野たれ死ぬ権利さえない」そうです。)
祖父の遺志は判りませんが、故ニックリンソン氏は自分でその意思表明をしているのだからこそ認めてあげてほしかったと考えています。
対して、「尊厳死」「安楽死」を軽々しく認めるべきではない理由として
倫理問題以上に、軽はずみな自殺志願者を増やしてしまうというリスクを多分に含んでいるという物があります。
状況が改善する見込みがありながらも、生きる事を早々に諦めてしまう人が増加する。
それを多くの国家では恐れているのでしょう。
そしてその様な事情を組んだうえでの幾ら厳密な優れたルール作りがなされても、
今度はその基準の当落線上で問題が頻発する事は目に見えています。
所詮他人の痛みを完ぺきに理解する事など出来ません。
「尊厳死」が認められるなら認められるで、認められないならそのように、永遠に問題は消える事は無いでしょう。
摩擦は消える事は無いでしょう。
しかしだからこそ、この問題には真摯に取り組んでいってほしいと願うばかりです。
最後に、日本における「尊厳死」「安楽死」の要件を転載しておきます。
NEWSポストセブン|覚えておきたい「尊厳死の3要件」「安楽死の4要件」
未曾有の高齢化社会の到来を前に、人間が人間としての尊厳を保ちながら死ぬ「尊厳死」、患者の求めに応じ、医師などが積極的あるいは消極的手段によって死に至らしめる「安楽死」に注目が集まっている。尊厳死と安楽死を満たす要件は以下の通りだ。
●「治療行為の中止(=尊厳死)」の3要件
【1】患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく、死が避けられない末期状態にある。
【2】治癒行為の中止を求める患者の意思表示か、家族による患者の意思の推定がある。
【3】「自然の死」を迎えさせる目的に沿った決定である。
●「安楽死」の4要件
【1】患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいる。
【2】死が避けられず、死期が迫っている。
【3】肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がない。
【4】生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある。
(「安楽死」「尊厳死」ともに1995年3月の東海大安楽死事件・横浜地裁判決による)
※週刊ポスト2010年12月17日号
今は新しい物が出ているんでしたっけ?
今回はここまで、です。
休んでいた期間中に記事にしたいニュースは色々あったんですが、長すぎて1回にまとめるのは出来ませんでした。
特に、出生前診断のアレについては後に取り上げたいと考えています。
でも、いつになる事やら。
今回も最後まで読んでいただいた方には感謝申し上げます。
有難うございましたm(_ _)m
皆さんはこの問題についてどう思われますか?
取るに足らない、と見なすことも簡単です。
が、この文章が皆さんの考えるきっかけになって頂ければ幸いです。
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気が付いたら40000HiTを達成しておりました。
4・・・・4万・・・。
まさかこんな日が来るとは・・・。
しかも7月末から1か月以上更新しておらず、放置するしかなかった間も細々と伸ばしていたようです。
それもこれも皆さんのお陰です。
ありがとうございました。
これからも頑張っていく所存ですので、改めてよろしくお願いします。
コメント
病気に限らず苦しみに解決法がない人は自殺しますね。いつものことにも思えますが。
病気を苦にした自殺は多いですが、ほかにも理由は色々あります。
ただ、自殺できない状態の人は本当に方法がないですね。
尊厳死は病院は気の毒です。病院、医者にデメリットがあるからしないでしょう。
昔、尊厳死させた医者が問題になった記憶があります。
本人が望んでも、家族・親戚の全員が賛成ではなく、親族と世間から責められるでしょう。
新聞テレビの話題にもなって大変です。人殺し扱いです。
病院も迷惑をするから避けたいのだと思います。
認めれば、病人をどの基準で尊厳死にするのかも問題ですね。
希望者が溢れたらきりがないですし。何のメリットもない嫌な仕事でしょう。
でも、アメリカには尊厳死させてくれる場所があるそうです。
前にアメリカに渡って尊厳死をした外国人が報道されていました。
その施設は勇気あると思います。
病院の仕事にせず、専門の施設を作るほうがいいかもしれないです。
病気じゃなくても望めば尊厳死させてくれればいいと思いますが。
解決が不可能な苦痛は色々あります。
命の有無が問題なら、借金などは結局殺されますし。
病気の肉体的苦痛は最も苦しい切実なので議論されて仕方ないですが。
現状だと、尊厳死は病院や家族にも迷惑をかけますし、
「自分の命は自分で始末をつける」ある意味正しいかもしれないですね。
自殺者を楽に死なせてくれる世の中じゃないですね。
毎年、みな苦しんで自殺していますね。
また、延命は家族が望まなければいいので、別の問題だと思います。
親戚の家族は延命を望まずおじいさんは自然死しました。家族が決めれば可能です。
それでは、失礼致します。
随分古い記事なのに、コメントありがとうございます。
>病院
確かに私も尊厳死をさせて問題になった医師がいたと記憶しています。ただでさえ医療と死はデリケートな問題をはらむのに、更に正しい答えが見えない問題。病院側だった営利施設なのですから尻込みするのは当然で、攻める事は出来ませんよね。
仰るように専用の施設で専門の体制を構築するのが、もし行うのだとしたら正しい在り方なのかもしれません。しかしそれもまずは国に認められてからという事でしょうね。
>尊厳死の有無
結局「死」という物が、どういった物事に対しての、どの様な形での「解決」になるのかが定義されない限りこの問題が無くなる事は無いのではないかと思います。
>延命
家族や本人に選択の是非が与えられているのは事実です。
ただ私が云いたいのは、私の挙げた例の様に、「死」という物に向き合った際に本人が望まない状況・またはそうと確認が出来ない状況で、他者がその決定権を握っている状況が、本人に与えられている「生きる権利」を蔑ろにしているのではないか?という事です。場合によっては私たちは祖父にただただ長い苦渋の日々を過ごさせていたのではないのか?と。他にしようのない状況ではあったとはいえ、それは歪んでいるのではないか?という事です。